花山うどんの歴史
明治
「日本一のうどん」の大志を抱き、花山うどんを創業
初代 橋田金三郎
奉公先の日本橋で全国の優れた麺に感銘を受けた初代・金三郎は、明治27年(1894年)故郷の館林で花山うどんを創業いたしました。
写真中央が初代・橋田金三郎(晩年)です。
若き頃は、日本橋の乾物問屋で見習い修行をしていました。日本橋は当時から全国の銘品・一級品が集まる地でした。各地の優れた銘麺に出逢い感銘を受けた金三郎は、いつかそれらの麺を超える日本一の麺を作りたいとの思いを抱き、故郷の館林で花山うどんの暖簾を掲げました。
館林は、利根川と渡良瀬川の2大河川に挟まれ、美味しい地下水が湧き出す地です。冬の日照時間の長さや、山から吹き降ろす上州名物からっ風、水はけがよく肥沃な土壌など、自然環境に恵まれ、古くから群馬は小麦の生産が盛んでした。なかでも館林は良質な小麦の産地として有名で、江戸時代には館林藩から将軍家に名産品としてうどんが献上される等、歴史に根付いたうどん文化があります。
明治時代の花山うどん店舗の写真です。当時は店舗と製麺所を併設しておりました。店舗は現在に至るまで同じ場所にあり、今では「館林駅前の花山うどん」として親しんでいただいておりますが、創業当時はまだ鉄道が開通しておらず館林駅もありませんでした。
すぐ近く(現在の館林駅西口)には、明治33年(1900年)創業の日清製粉(創業当時の社名は「館林製粉」)、うどんのつゆに欠かせない醤油を提供する明治6年(1873年)創業の正田醤油があり、館林のうどん文化の礎になっています。
昭和初期の「花山うどん」「花山ひも川」パッケージの写真です。創業当時に誕生した「花山うどん」「花山ひも川」「花山ひやむぎ」は、「特製花山うどん」「特製花山ひも川」「特製花山ひやむぎ」に名を変えて受け継がれ、昔ながらの郷土の味として現在も愛され続けています。
大正~昭和
看板商品「鬼ひも川」「最高級花山うどん」誕生
二代目 橋田藤吉
大正時代に「鬼ひも川」、昭和3年に「最高級花山うどん」を二代目・藤吉が考案。2品とも現在では当社の看板商品となっております。
金三郎の右隣が二代目・橋田藤吉です。
「皆を楽しませること、喜ばせることが大好きで、面白い商品を次々に作る」「お祭りが好きで、皆で賑やかに食事やお酒を楽しむのが大好き」な人物であったと語り継がれています。
明治44年(1911年)、藤吉が家業に加わった頃の「花山うどんの大売出し」の写真が残されています。ちょうちん、お花、のぼり、大看板、横断幕などがあちこちに飾られ、大勢の人で賑わっています。写真は白黒ですが、実際はとてもカラフルだったことでしょう。
藤吉は、大正時代に「鬼ひも川」、昭和3年(1928年)に「最高級花山うどん」を考案いたしました。2品とも現在では当社の看板商品となっております。
「鬼」には「鬼才」などのように「並外れて素晴らしい」という意味があります。「鬼ひも川」は、群馬の郷土麺ひも川(ひもかわうどん)の中でも特に幅が広くて美味しいひも川だという意味を込めて「鬼ひも川」と名付けられました。
「最高級花山うどん」は、くすんだ色の麺が当たり前だった当時、純白の輝きを放つ麺として称賛されました。昭和天皇ご即位を記念する「御大典記念全国土産品展覧会」においては優等賞を受賞し、天覧品・献上品にもなりました。
写真は、天覧の栄誉を記念して撮影された藤吉と、昭和中期の「鬼ひも川」パッケージです。
昭和
激動の時代を乗り越え、近代化へ
三代目 橋田正雄
時代にあわせた新商品と、品質・技術向上。南極地域観測隊の昭和基地にて携行品としてご愛用いただき、数々の認証・表彰・賜杯を賜りました。
三代目・橋田正雄は、戦時の国難から、戦後の高度経済成長・近代化まで、激動の時代を歩みました。
戦時下の食糧難・原料不足で小麦粉が思うように手に入らず、多くのうどん屋が廃業の危機に立たされる中、もち米を原料にした「白玉うどん」を開発して危機を乗り越えました。出征先の南方の島で終戦を迎え、復員後は、うどん用の中力粉だけでなく製パン用の強力粉や製菓用の薄力粉も取り入れるなど大胆な発想で、時代のニーズにあわせた「栄養強化麺」やスパゲッティ風に調理できる丸麺「花山満月」など、斬新な新製品を次々と開発しました。
昭和31年(1956年)南極物語のモデルとなった文部省の南極地域観測隊の昭和基地にて、花山うどんは観測隊携行品としてご愛用いただきました。
当時の隊員の方からいただいたお手紙に「めんつゆの代わりにカレーにつけて食べたらとても美味しく、凍えた体に活力が蘇ってきました」と綴られていました。このエピソードから開発・誕生した「南極カリー」は、贈答品・お食事処メニューとして好評を博しております。
時代に先駆けて、工場へソーラーシステムを導入するなど新技術も積極的に取り入れました。花山うどんの品質と製造技術は高く評価され、数々の認証・表彰・賜杯を賜りました。
写真は、昭和後期、工場の屋上にて、晩年の正雄と当時の工場長。(背後には、館林市民には懐かしの「キンカ堂」の看板が見えます。)
昭和~平成
伝統製法を科学的に分析 「バニッシュループ製法」を確立
四代目 橋田三造
天日干しの環境を屋内で再現する独自製法の開発で、古からの伝統製法と、近代的な衛生・品質管理を両立いたしました。
昭和55年(1980年)に有限会社へ改組。翌年の昭和56年(1981年)に本社兼店舗(現在の本店)を建て替えました。
創業100周年を迎えた平成6年(1994年)、工場を館林駅前から郊外の足次町へ移転いたしました。渡良瀬川にほど近く、周辺にはカルピス・ダノン・ブルドックなど多くの食品工場が集まる、水が豊かな立地です。
足次工場では、花山うどん伝統の製法を四代目・橋田三造が科学的に分析した「バニッシュループ製法」の設備が導入されています。
「バニッシュループ製法」とは、天日干しの環境を屋内で再現して、時間をかけ、乾燥と、乾燥を止めて生麺に戻す工程を幾度も繰り返し、じっくりと熟成しながらおいしさを磨き上げる花山うどん独自の製法です。
代々受け継がれてきた「自分たちの目の届く範囲で丹精を込めて作る」「決して大量生産しない」の精神は堅持しつつ、古来の伝統製法と、近代的な衛生・品質管理との両立を実現いたしました。
平成~令和
うどん日本一に輝く。
群馬の郷土麺ひもかわの魅力を発信
五代目 橋田高明
うどん日本一を決する「うどん日本一決定戦2013」「うどん天下一決定戦2014,2015」に復刻麺「鬼ひも川」で挑み、完全優勝・三連覇を果たしました。
五代目・橋田高明が家業を継いだ頃、世間は不況の真っ只中。食品・飲食業界は【美味しくて当たりまえ】 それ以上の価値をお客様に提供できなければ生き残れないと危機を覚え、古き良き伝統は残しつつ、新しい伝統を築き上げる覚悟で革新への挑戦を始めました。
まずは小麦粉を徹底的に学び、うどんだけでなく、あらゆる麺類・パン・菓子に至るまで研究いたしました。県内外の食材生産者を訪ねて目利きや調理法を教わりました。そして、様々な商品とメニューを生み出しては、厨房や販売の現場に立ちお客様の声を直に伺い、模索し続けました。
試行錯誤の日々の中、平成22年(2010年)、古い資料を繙き、二代目と三代目が残した「鬼ひも川」の製造記録と包装資材を発見しました。
試作を重ね、完成が近づいた頃、全国の名産うどんが集結し日本一を決する大会の開催が決まり、自社と郷土の魅力を全国へ伝えるべく、鬼ひも川の復刻と大会への出場を決意いたしました。
平成25年(2013年)8月、東京代々木公園で開催され14万人のお客様にご来場いただいた「うどん日本一決定戦U-1グランプリ2013」にて、花山うどんの鬼ひも川が「売上部門2位」「お客様評価部門1位」を獲得。日本一となりました。
翌年、大会名を変更して開催された「うどん天下一決定戦2014」では、行列が代々木公園の外まで伸びるほどの評判を呼び「売上部門1位」「お客様評価部門1位」の完全優勝で二連覇。評価部門のみで開催された「うどん天下一決定戦2015」では三連覇を果たし、「花山うどんの鬼ひも川」のみならず「群馬の郷土麺ひもかわうどん」がメディアや観光で脚光を浴びるようになりました。
平成28年(2016年)10月、初の支店となる「銀座店」を東京都中央区銀座三丁目・歌舞伎座裏にオープンし、翌 平成29年(2017年)10月には、地元のお客様向けにご自宅用商品を強化した物販店舗「アゼリアモール店」を群馬県館林市楠町にオープンいたしました。
令和3年(2021年)4月 群馬の名湯 伊香保温泉の石段街に「伊香保石段店」、創業から127年目の令和4年(2022年)1月 私たちのうどん作りの出発点でもある街に「日本橋店」、令和5年(2023年)1月 日本の玄関口である 羽田空港 国際線 第3ターミナル直結施設に「羽田エアポートガーデン店」をオープンし、群馬県産小麦のおいしさを国内外へ発信しております。
各店の内装には、館林市のシンボル「ツツジ」や群馬県のシンボル「ツル」をあしらい、館林が舞台のおとぎ話「分福茶釜」にちなんだタヌキの器を用る等、館林らしさと群馬らしさを随所にちりばめております。食はもとより、空間や演出ごとお客様にお楽しみいただき、郷土の魅力発信につながればと願っております。
これからも 群馬の味 を全国へ、
そして海外へ、伝えていきます。